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「土佐元親、引田浦に戦ふの記」、「讃州十河城落去の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月20日(金)00時08分21秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.7.19

「土佐元親、引田浦に戦ふの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1583Fd.htm

「讃州十河城落去の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1583Fe.htm

を転記しました。

天正11年春
高松城攻略に失敗した仙石秀久は
阿波土佐泊城の森志摩守一族の援軍を得て
引田城に楯籠もります。
長宗我部元親の何万という大軍に対して二千の軍勢で
四国を何とかしろという秀吉の命令も過酷ですが
それを文句を言わずに実行する秀久の態度に
秀吉も、おおいに感じ入っていたに違いありません。
こういった、少々”お間抜け”でも、大言壮語な人物が秀吉はお好きなようです。
この戦いでは、森権平の活躍と戦死が伝えられています。
権平は、秀久からも気に入られ
仙石姓を与えられたほどの若武者でしたが
権兵衛と権平で、名前が紛らわしいので
大将と聞き違えた稲吉新蔵人に追い詰められて討ち取られてしまいました。
足を泥田に取られて討たれたので
今は”足の神様”の”権平さん”として多くの人に崇められ親しまれています。
そのまま怒濤のように雪崩れ込んだ土佐軍によって引田城も攻略されてしまい
秀久はふたたび海上へと遁走していくのでした。
頼みの援軍がなくなったことで、十河城もついに最後の時を迎えます。
このとき、存保が虎丸城にいたのか、十河城に舞い戻っていたのかは
今も議論のあるところで、定まった説はありません。
讃岐人の小生としては、最後まで虎丸城籠城説を採りたいところですが・・
いずれにせよ、平和的な開城で十河一族は屋島から備前を指して落ちていったのでした。
この項目で長かった「南海治乱記;巻之十二」は終了です。
今からしばらくは、小生にとっては苦手な南予軍記が続きます。

↓肖像は「信長の野望」に登場の吉良親実です。
引田城の攻防戦では、大西上野介と先陣争いを繰り広げました。
後年、元親の後継争いで比江山親興一族とともに亡ぼされてしまいます。
その祟りが「七人ミサキ」伝説になったことは前にも触れましたが
こうした有能な一族を次々と粛正してゆく晩年の元親は
本当に、どうしてしまったのでしょうか?
秀頼を溺愛し、秀次一族を残忍に征伐した晩年の秀吉や
弟の冬康を弁明の場も与えずに切腹させた晩年の三好長慶を彷彿とさせるのですが
全部、老人性のアルツハイマー病の症状であると片づけるのには
少々、解せない感じもします。精神分析的にも大変、興味深い類似とも言えましょう。

 
 

「十河存保、援兵を秀吉公に乞ふの記」、「土州元親、阿州自り讃州に発向の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月18日(月)23時59分39秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.6.18

「十河存保、援兵を秀吉公に乞ふの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1583Fc.htm

「土州元親、阿州自り讃州に発向の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1583Fb.htm

を転記しました。

天正11年4月
十河存保のSOSを受けて
豊臣秀吉の四国征伐が開始されます。
と言っても、まだ柴田勝家との対決が目の前にあるため
大軍を派遣することはできず、
仙石秀久に2千の兵を付けて讃岐方面に進出させましたが
作戦の悪さからか、城の堅さからか、喜岡城を落とすことができず撤退してしまいます。
喜岡城攻撃に失敗した仙石秀久をあざ笑うように
元親は、近くの屋島、志度などの名所巡りを敢行します。
「南海治乱記」には「屋島の法橋」なる人物が
長々と元親に源平の昔を解説した様子が書かれています。
著者の香西成資も、讃岐の名所、特に源平合戦の史跡を
広く世に知らしめるのはここぞとばかりに
法橋の熱弁を借りて結構な力の入れようです。
まあ、事実かどうかは、よくわかりませんが
法橋が元親に
六万寺に宿泊しろだの、警戒を怠るなだの
親切と言うべきか、オベッカと言うべきか
元親のご機嫌を取っているのが、どうも鼻につきます。
みんな逃げてしまっているのに、一人だけ平気でいるというのも
何か気になりますねえ・・
裏に何かありそうで
小生が元親だったら、絶対に六万寺だけには宿泊しないでしょうね。
いずれにせよ
さすがは古狸の本拠地だけのことはある
雲辺寺の気骨ある僧侶とは対照的な屋島寺の坊様でした。

↓肖像は「信長の野望」の仙石秀久(上)と本物の肖像(下)です。
比較しやすいように、本物の方は左右反転しています。
「ウィキペヂア」によると
敵兵を引き付ける為に鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして
合戦に参加し、歩くたびにシャナリシャナリと鳴るので
「鈴鳴り武者」の異名をとったと伝えられています。
「旗印」に「無」の文字を用いたり(これは秀久だけではありませんが)
当世きってのダンディ男だったのかもしれませんね。
「城と炎と血天井」の十河信善先生は「ヘンチキリンな男」と手厳しいのですが・・・
それにしても、「信長の野望」の絵もよくそのあたりを再現できています。
いったい、どんなマニアックな人が描いているのでしょうか?・・・

 

「細川掃部頭殿自害之事(三好記)」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月15日(金)01時22分6秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.6.14

「細川掃部頭殿自害之事(三好記)」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ek.htm

を転記しました。

天正10年10月8日、勝瑞を抜け出て仁宇谷に隠棲する細川真之は
突然、何者かの襲撃を受けて自刃して果てました。
「三好記」では”山林の逆徒”
「細川家記」では”三好の残党”
となっています。
「細川家記」によると
一子、六郎に家伝の宝物をいろいろと説明して渡し
家臣の仁木伊賀守にくれぐれも六郎を頼み込つつ最後の別れを惜しみ
ようやく彼らを逃がした後に自害します。
家人はその遺骸を隠し
敵が押し入って来た時には、ひとり残らず逃げてしまっていたと書かれています。
それほどの時間的な余裕があったのなら自害しなくても済んだのでは?・と思ってしまいます。
まあ、「細川家記」は子孫の手で後世に成立した書物ですから
誇張や思い違いも多く、素直に信じることはできないのですが
まことに臨場感豊かで、物語として読む者を引き込む魅力を持っています。
しかし、実際は
そんな余裕など全くない状態で・・たとえば
味方と思っていた者に不意打ちを掛けられたとか
あるいは、そんな輩が長宗我部の刺客を引き入れたとか
逃れることのできない絶望的な状況で最期を迎えたのではないでしょうか?
新開道善や一宮成助が粛正されたのとほぼ同時なだけに
元親によってどさくさで葬り去られたのだと小生は信じています。
真之の自刃の地が茨ヶ岡の館と違う山中にあるのも哀れを誘います。
おそらく着の身着のままで逃げ出し、ここで敵に追いつかれてしまったのでしょう。
さぞ無念であったと思います。

↓肖像は「信長の野望」に登場する細川真之です。
精悍な貴公子のイメージですが
自刃したときの年齢は44歳くらいと推定されています。
勝瑞を抜け出して6年近くが経過していました。

 

「阿州岩倉城攻記」、「土佐元親阿波平治の記(一宮成助成敗)」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月10日(日)09時57分10秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.6.10

「阿州岩倉城攻記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ej.htm

「土佐元親阿波平治の記(一宮成助成敗)」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ei.htm

を転記しました。

岩倉城は、三好笑岩の本拠地にして
古くは鎌倉時代の小笠原長房にまで遡ると伝えられる三好氏累代の根城です。
お隣の脇城は、中富川の決戦以前に早々と落とされてしまいましたが
さすがに岩倉城は三好氏最後の象徴として、あるいは元親の笑岩への忖度?として
10月まで残しておいたようです。
脇城と違って平和裡に城明け渡しも行われたようですが
さすがに笑岩に顔向けできないのか、その後の徳太郎の行く末はよくわかっていません。
讃岐に落ちたとも、狂い死にしたとも伝えられています。
城には、徳太郎の供養塔が残されているようですが
おそらく、後世に建立されたものでしょう。
「松風騒ぐ丘の上・・」と古えを静かに偲びたいところですが
今は、本丸北側を高速の徳島道が横切っていて、車の音の方が騒がしいそうです。

一宮成助の謀殺も、新開道善とともに非常に陰険なやり方で、まさに非情です。
まだ、城を攻められて滅ぶ方がマシというものです。
その恨みで、夷山界隈には、「夜行さん」という妖怪が出没したとのことです。
この妖怪は、四国ではあちこちに伝説があって
わが讃岐にも
”縄目筋”と呼ばれるまっすぐな道には
夜中に首無し馬に乗った三人組の妖怪が
「ヒトくさい、ヒトくさい」「取って食うぞ」「後にせい」と呟きながら
通り過ぎるという話を、お祖母さんからよく聞いたものです。
妖怪の名前を「夜行さん」とは言わなかったような気がするのですが・・
まあ、戦国時代の悲話を題材にした亡霊伝説は
この「夜行さん」と、高知県の「七人ミサキ」が双璧でしょうね。
二つとも、原因は長宗我部元親であるというのも考えさせられます。

↓肖像は「信長の野望」の一宮成助です。
正室は三好長慶の妹なので、生粋の三好氏重臣ですが
長慶系とはうまくやっていましたが
義賢系とは、今ひとつウマが合わなかったようです。ライバル意識もあったのでしょう。
長治を滅ぼしたまではよかったのですが、矢野国村が離反したのは
予想外で痛かったことでしょう。以後は、何となく運に見放されて左回りとなります。
この肖像は、何となく人の良さそうな成助のイメージです。
新開道善とは結構ウマが合って、嬉しい時はハイタッチして喜びを分かち合いそうなキャラですかね?!
それに比べると、元親は全く冗談は通じなさそうで緊張します。

 

「脇城陥落、武田信顕、信定父子滅亡」、「新開道善謀殺(丈六寺の変)」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月 8日(金)01時37分40秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.6.6

「脇城陥落、武田信顕、信定父子滅亡」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Eg.htm

「新開道善謀殺(丈六寺の変)」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Eh.htm

を転記しました。
脇城陥落については、手持ちの資料がほとんどなく
他のHPなどを参考にさせていただきました。
信顕が讃岐の白鳥まで逃げて捕縛されたことや
子の信定が、脇城の場外で切腹させられたことが
詳しく書かれてあるのですが、その原典がよくわかりません。
一度、脇町に照会してみるつもりですが、どなたかご教示いただければ幸甚です。

「丈六寺の変」は、非常に有名で
今も残る血天井をみるために多くの人々が参詣します。
確かに飛び散った血糊や、生々しい手形がおどろおどろしいのですが
広縁の床板にしては、薄っぺらい感じが、少し気にかかります。
丈六寺の他にも全国に数カ所残っていますが
本当にヒトの血液かどうかは不明とのこと。
最近は、DNA鑑定の手法が進んでいますので
ぜひ、確認して頂きたいものです。
私事で恐縮ですが、香川県坂出市の中学校の教師をしていた父の同僚に
新開先生がおられ、小学生だった当時、大変可愛がって戴きました。
父は常に”新開遠江守の子孫”と呼び、本人も無碍に否定はされなかったので、
へ~そうなんだ、と納得していたものです。
白峰合戦の史跡三十六も幼い頃の遊び場だったし、
同じ頃、両親と旅行で訪れた丈六寺の血天井も怖い物みたさで
父の背中から恐る恐る覗くように見上げた記憶があります。
オマエは本当に”おとっちゃま”(物怖じ)じゃのお、と笑われたことを良く憶えています。
今も”新開道善”と聞くと、新開先生の恵比寿様のような親しみのある優しいお顔が脳裏に去来するのです。
死んで「禁酒の神様」になるくらいですから
当の道善も、案外、気の良いオジサンだったのかもしれませんね。

↓肖像は、「信長の野望」に登場する武田信顕亡き後の脇城主となった、長宗我部親吉です。
元親の甥といわれ、根っからの武断派の武将です。
最後は、秀吉の四国征伐で、落ち武者同然に土佐に帰還の途中
貞光上流の栂橋付近で、地元土豪の小野寺一族に惨殺されました。
因果応報とは言いながら、一抹の哀れさを感じます。

 

「細川石見、長曽我部に与力する事」、「森志摩守と篠原自遁の事(仮称;昔阿波物語)」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月 5日(火)01時13分40秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.6.4

「細川石見、長曽我部に与力する事」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ef.htm

「森志摩守と篠原自遁の事(仮称;昔阿波物語)」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ee.htm

を転記しました。

三好義賢(実休)に祖父の持隆を討たれ
同母弟の三好長治に父の真之が辱めを受けた恨みを晴らそうと
真之の嫡子、之照が
長宗我部の与力として中富川の決戦に参戦します。
仇敵の十河存保も、父、真之の同母弟ですから
之照にとっては叔父に当たる訳です。
「細川家記」はやや昔語り的な創作や誤りも多いのですが
他に記録がないだけに、当時の決戦秘話を興味深く伝えています。
ぜひ、御覧ください。

「森志摩守と篠原自遁の事(仮称;昔阿波物語)」は
中富川の決戦後の両者の動向を伝えています。
篠原自遁は、相変わらず不甲斐なく淡路に小少将を連れて逃げるのですが
ひょっとすると他の家臣の奥方や家人も引き連れていたかもしれません。
勝瑞が殲滅戦になることは、存保も前もって予想していたはずですので
あらかじめ、自遁に女子供を託したことは考えられます。
まあ、好意的に捉えれば、の話ですが・・
それに比べると、森志摩守元村の活躍は忠義の士として絶讃されています。
水軍は、縦横無尽に機動性を発揮して、どの合戦でもその勝敗を左右します。
元親の2万の大軍を以てしても、最後まで厄介な敵だった訳です。

↓肖像は、「信長の野望」に登場の小少将(大形殿)・・のつもりです。
「信長の野望」には特定されてはいない予備的な肖像が多く含まれています。
お姫様の多くは若く美しいビジュアル系キャラとして描かれていますが
自遁と淡路へ逃げた当時は45歳を過ぎていたことも考慮して
小生の独断と偏見で、妖艶な中年女性?を選んでみました。
若いとき、実休や自遁を虜にした美形の面影を十分に残す大年増というイメージです。
ご感想は如何でしょうか?

 

「勝瑞城攻の記」、「紀州雑賀衆、土佐に加参の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月 2日(土)23時16分29秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.6.2

「勝瑞城攻の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ec.htm

「紀州雑賀衆、土佐に加参の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ed.htm

を転記しました。
中富川の決戦に大敗した十河存保は、詰城の勝瑞城に逃げ込みます。
町屋を焼き、籠城の構えで静まりかえっている様子を見て
元親は、ゆるゆると包囲を狭め、万全の体制で殲滅戦を開始します。
しかし、予期しない洪水に襲われて、多くの兵馬を喪失してしまいます。
旧暦の9月は台風の季節で、土佐人の元親も、そのことは十分に予期していたとは思うのですが・・
元親軍に船はなく、それを尻目に森志摩守が悠々と船で物資を勝瑞に搬入したのですから
怒りが頂点に達していたに違いありません。
おまけに紀州雑賀衆が船で遅れて到着。その数2000・・・
しかし、その時、すでに存保は和議を結んで讃岐に去った後で、最悪のタイミングです。
まあ、戦いには勝利した訳ですから、紀州勢には寛大に接して、お土産まで持たせて帰しましたが
内心、「この役立たずが!」と腸を煮えくり返らせていたに相違ありません。
この時の洪水や鳥刺しによる土佐勢の損失が書かれていないのは残念なことです。
土佐側に記録がないのは、結構、大きな損害だったのでは?と、つい疑ってしまいます。(^^;
皆様の考えは如何でしょうか?

↓肖像は、「信長の野望」に登場の香宗我部親泰です。
肝の据わった勇将のイメージで
元親の右腕として、四国攻略は言うに及ばず
信長や家康とも通じて、中央との外交面でも大きな力を発揮しました。
文禄の役の朝鮮に赴く途上で、長門で急死したのは惜しんでも余りあります。
親泰の死は、長宗我部氏の衰退を告げる最初の晩鐘となりました。

 

「阿州中富川合戦記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 5月28日(月)07時46分18秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.5.26

「阿州中富川合戦記」

http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Eb.htm

を転記しました。
天正10年8月28日、十河存保と長宗我部元親は
吉野川の支流であった中富川で激突しました。
四国最大の決戦、「中富川の戦い」です。
ほとんどお互いの、直臣、陪臣総出による総力戦でしたが
兵力が余りにも違いすぎ、おまけに短時間で決着のつく野戦だったので
その日のうちに、あっという間に勝敗がついてしまいました。
激しい白兵戦で、存保側は多くの兵将を戦死させてしまい
二度と体制を立て直すことは出来ずに降伏し、讃岐に退去したのでした。
まだ、撫養に篠原自遁や森志摩守が残っているとは言え
実質的にはこの時点で阿波は全て元親の支配となったとみて良いでしょう。
中富川は、現在はほとんど水田となってしまい残っていませんが
当時は、(旧)吉野川と、中富川、吉野川(別宮川)が第十堰あたりから分岐しており
分流が多いだけに、土佐軍の渡河も容易ではなかったかとは思うのですが
季節は夏だし、「四国三郎」として利根川、筑後川と並び称される大河だけに
合戦前に、徒渉点を調査、確保した上で、一気に渡ったのでしょう。
土佐駒は小さいだけに、その様子を想像するだけで微笑ましく感じます。
存保側も、当然、それを見越して、その地点に集中的に防御戦を張った筈です。
しかし
全く平地の、勝瑞付近の地理的な不利さを思うと
なぜ、このような無謀な決戦をしてしまったのか、些か不思議なのですが
「長元物語」に書かれてあるように
三好家臣の楽観的な見通しが、まさか伊予に留っている久武親直や
元親自身まで出てくる総力戦であることを見誤らせたのではないでしょうか?
前九年の役で、全軍の頼義軍にあっさりと負けてしまった安倍貞任軍を彷彿とさせます。

↓肖像は「信長の野望」に登場する
阿波の猛将、七條兼仲(上)と
讃岐の客将、寒川元隣(三河守、光俊とも)(下)です。
二人とも、この決戦で壮烈な戦死を遂げました。

 

蓮田合戦(金心正義録(抜粋))を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 5月21日(月)15時01分6秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.5.19

「蓮田合戦の事」(金心正義録)
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1583Fa.htm

を転記しました。
これも「南海治乱記」には記述のない記事のひとつです。
原文が漢文でオマケに長いので、転記に結構、時間がかかりました。
由佐、三谷を抜いた長宗我部軍は讃岐全土の制覇を目前に
寒川氏、安富氏に侵攻を開始します。
寒川氏はすでに抵抗する力は失われていたと思われますが
安富氏への攻撃前に通過するのが、石田村、つまり、蓮田合戦の地です。
迎えうつ細川則弘は、何と、かの細川清氏の末裔で、
今なお足利家に反抗する気骨ある南朝の遺臣のひとりです。
合戦自体は小規模な掃討戦だったとは思うのですが
神仏の加護を得た則弘の活躍がリアルに描かれています。
長宗我部軍に多くの寺社を焼かれ、土地を荒らされた讃岐人にとっては
則弘の義挙は、まさに快哉を叫びたい痛快事です!ぜひ、ご一読ください!
南朝細川氏の事蹟は、これに止まらず、さらに
大坂夏の陣で生き延びた真田幸村を2年間も匿い、その血を受け継いで、
明治になって細川を真田に改めて連綿と現在に至っています。
本当にスゴい話で、日本版”水滸伝”の聖地だと言えましょう。

↓肖像は、「信長の野望」の真田信繁(幸村)です。
さすがに赤備えの甲冑に、いずれもカッコよく描かれていますね。
「南海通記」によると
承平天慶の乱で藤原純友に加担した三野大領の綾高隼は
乱後、死に装束に六文銭を掛けて朝廷に謝罪します。
その結果、信濃国小県郡に流罪となって、その地で存続し
真田氏となったと伝えています。真田六文銭の由来でもあります。
まあ、荒唐無稽の説かもしれませんが
その末裔である幸村が再び讃岐の地に帰り来るとは
偶然とは言えない、何らかの運命を感じさせてくれます。
何と言っても、家康を3度もビビらせた”日本一の兵(つわもの)”が
讃岐と深い関係があるとは、これ以上の郷土の誇りはありません!
昔から南朝と幸村贔屓の小生にとっても、このダブルミラクルは、実に嬉しい限りです。

 

「由佐長曽我部合戦記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 5月13日(日)00時52分55秒 ag079111.dynamic.ppp.asahi-net.or.jp
返信・引用
  2018.5.13

「由佐長曽我部合戦記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ff.htm ・・・由佐城攻め

http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Fg.htm ・・・天福寺炎上

http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Fh.htm ・・・王佐山城(三谷氏)攻め

を転記しました。
天正10年8月、香西氏を下した長宗我部軍はそのまま東進し
香東川左岸の由佐城を攻略します。
今は高松市香南歴史民俗郷土館になっている由佐城ですが
一昔前までは、江戸時代も豪農で存続した由佐氏の大邸宅があり
大きな茅葺屋根の風格ある建物が印象的でした。
車で行くと何の変哲もない平地に思えて、到底、堅城には見えないのですが
背後の起伏に富む地形を利用した伏兵戦を仕掛けて
長宗我部軍は、香曽我部六郎景全、桑名八郎左衛門の2将を失うという思わぬ苦戦を強いられます。
地元の巨刹、天福寺を焼かれた恨みが由佐軍の底力になったことは容易に想像できます。
その決死の威圧にビビッてか?早々に和議を結んで、香東川を渡って三谷氏の攻略を開始しました。
和議の代償として由佐氏がその先鋒を務めさせられたのは仕方ないとは言え
王佐山城は過去に実戦を2回も耐え抜いた名だたる山城、おまけに長い間、隣人であった植田氏族を責めたてることは、さぞ辛かったことでしょう。
3日目に城主や奥方達が無事、脱出できたのも、由佐氏の温情によるものかもしれませんね。

↓の家紋は由佐氏の「下り藤に加文字」です。
天文年間に編纂された「見聞諸家紋」に描かれています。
由佐氏はもともと関東の益戸氏で藤原秀郷流の系譜とされていますので
「下り藤」は理解できるのですが、「加」文字はどういう言われがあるのでしょうか?
「加」は当然、加賀の藤原氏である加藤氏の象徴ですから
いまひとつ、由佐氏とのつながりが見いだせないのですが・・
家臣に「加藤主馬」という名が見え、そこに何かヒントがあるのかもしれません。
また、ご教示いただければ幸いです。

 

「香西伊勢馬場並に西光寺表合戦の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月14日(土)00時06分2秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2018.4.13

「香西伊勢馬場並に西光寺表合戦の記:巻之十二」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Fd.htm

を転記しました。
香西の佐料まで進んだ長宗我部軍は、ここで
まっすぐ伊勢馬場を経て北上する伊予衆+香川氏の正面軍と
東から西光寺表を経て搦手から藤尾城に迫る国吉三郎兵衛、中之内源兵衛、大西上野介の土佐阿波連合軍の2手に分かれます。
総勢1万5千余の大軍が、狭い香西の中枢に向かって襲いかかったのですから
香西の諸将も、今日を限りの命と覚悟を決めて昂然と迎え撃ちました。
その後の合戦は、順を追って記事と絵図に纏めておきましたので、ご笑覧ください。
とにかく、讃岐の歴代の合戦の中でも、最大の戦いであっただけに
香西成資の筆致も実に力が入った長文で、読み応え十分です。
実際の戦いを憶えている古老から聞き取った部分も多く、信頼性も高いと思います。
残念ながら、この合戦は、成資自身も言っているように
香川家も長宗我部家も亡びてしまったために、ほとんど他の記録が残っておらず
中富川の決戦と比べても、知名度は余り高くはありませんが
「南海治乱記」の一つのクライマックスでもあり
よくぞ、これだけの記録を残してくれたものと、香西成資に感謝を捧げる次第です。

↓肖像は、「信長の野望」に登場の香西佳清です。
目の不自由さが原因して、結構、偏屈で偏執的な性格であったようですが
「治乱記」の記事にもあるように
戦いの後、家臣にクドクドと負け惜しみと言い訳を並べ立てるあたりは
そんな性格の一面が、よく捉えられているのではないでしょうか?
成就院事件で家督を争った弟の千虎丸も早くに夭折し
佳清も生駒入国後は領地を失い、36歳で寂しく没したと伝えられています。

 

「土佐元親、予州を調略す」、「土佐元親、阿讃二路に出陣の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 4月 8日(日)18時47分48秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  「土佐元親、予州を調略す;巻之十二」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1581Hb.htm

「土佐元親、阿讃二路に出陣の記(前半部);巻之十二」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Fb.htm

「土佐元親、阿讃二路に出陣の記(後半部);巻之十二」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Fc.htm

ひさしぶりに、「阿讃戦国史」の転記を再開しました。また、よろしくお願いします。
天正10年7月、長宗我部元親は、遂に阿讃両国に怒濤の進撃を開始します。
両軍合わせて3万余の大軍は、もはや三好方が到底かなう相手ではなかったのですが
織田の援軍なき今は意地にかけても絶望的な蟷螂の戦いをするしかありませんでした。
今回の項目は、まず香西戦の開始についてです。
西讃をほとんど席巻した元親は、次男の香川親政を総大将に香西に侵攻します。
先鋒は、悲しいかな、香西一族の羽床や新名が務めました。
一時は敵対したとはいえ、羽床資載の心境は如何なものであったでしょうか?
おそらく、状況は異なるとは言え、曹植の「七歩の詩」に類するものではなかったでしょうか?
「南海治乱記」では、資載のその後は何も伝えていませんが
同じ年の十河城包囲戦の最中に病死したともいわれ、このときすでに一線から退いていたのかもしれませんね。
さて
香西前哨戦は、粉懸の伏兵戦法からはじまります。
↓写真は、粉懸付近の昭和38年の国土地理院の航空写真です。(拡大は画像をクリック!)
「粉懸」は「衣掛」で、現在の衣掛池付近と思われます。
ここは、北の袋山(梟山)と南の伽藍山、その間の狭い土地を本津川が流れる、なかなかの要害の地です。
衣掛池は、江戸時代に西嶋八兵衛の築造と言われていますので
天正の頃にあったかどうかはわかりませんが、おそらく湿地帯で沼のようになっていたのではないでしょうか?
「古今讃岐名勝図絵」の「衣掛池」の項にも
「・・又、西来の冠を禦ぐ可く、西は皆山崖にして東に此水あり。
 其間、但一条の路、若し木を伐り其隘を塞がば
 百万の衆来ると雖も烏ぞ能く一歩を進めん、実に商洛の固め也。」と記載されています。
現在も、池の端を、予讃線と旧国道11号線が併走する面白い場所です。
今は、高松市西部運動センターができて池も小さくなってしまいましたが
若い頃、汽車に乗って(当時はディーゼル車でした)高松から坂出に帰る時
秋の夕日が湖面に静かに燦めいていた美しい情景を忘れることができません。

 

「信長公、四国征伐の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月11日(土)02時44分24秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.11.11

「信長公、四国征伐の記(前半部)」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ea.htm

「信長公、四国征伐の記(後半部)」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Ha.htm

を転記しました。
天正10年、信長の四国征討の準備万端が整ったところで
突如、本能寺の変がおこり信長父子は滅びてしまいました。
明智光秀のタイミングがタイミングだけに
四国征討が、この変の原因ではないかとの説は根強くあります。
光秀と元親の間に何かの密約があったのではないかと
秀吉が、怪しいと踏むのは当然のことと思います。
その後も、島津征伐直前に島津に大船を贈ったり
小牧・長久手の戦いでも、家康と連絡を取り合っているのですから
お互いが敵と認識しているのは否めない事実でしょう。
まあ、降参して土佐一国だけでも安堵してもらえたのですから
秀吉に滅ぼされた阿閉貞征や佐々成政、北条氏政らを思うと
元親も一応、良しとしなければいけないでしょうね・・・。

本能寺の変後、2ヶ月してから阿波、讃岐に向けて
元親の怒濤の進撃が開始されます。
阿讃戦国史も、ついにクライマックスを迎えますが
11月~12月は学生の国家試験対策で忙しく
転記も、少しずつになりそうです。
まあ、お読みになっている方もほとんどいないので (^^;
ノンビリやります。v(^^
「南海治乱記 巻十一」はこれで終了。次回からは怒濤の巻十二です!

↓肖像は、「信長の野望」に登場の長宗我部信親です。
元親の愛情を一身に受けて成長し
早くから嗣子と定められ、周囲からも羨望と期待の的でした。
母親は将軍義輝の奉公衆、石谷光政の娘
土佐に下向していた同じ奉公衆の蜷川親長の紹介とも言われています。
そういえば、アニメ「一休さん」に登場する奉公衆も
蜷川新右衞門でしたよね。架空の人物ではありますが・・
蜷川氏は政所執事の伊勢氏の家臣でした。
兄弟の親和、親忠、盛親、みんな同じ母親です。
これが後々の、後継問題にも絡んでくるのですが・・
戸次川の戦いで、早く死んでしまったのが惜しまれます。
彼が長生きしておれば、長宗我部家のその後も、全く異なっていたことでしょう・・

 

「阿州三好式部少輔、変を生じるの記」、「讃州十河城、兵粮の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月 8日(水)22時23分23秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.11.7

「阿州三好式部少輔、変を生じるの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1581Ee.htm

「讃州十河城、兵粮の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1582Fa.htm

を転記しました。
天正9年春、織田信長の命を受けて、三好笑岩が阿波に帰国します。
さすが、上方で修羅場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の三好家重鎮の堂々たる姿は
百の言葉よりも、三好旧臣を説得するのに十分であったことでしょう。
あの一宮成助まで、三好方に寝返ったのには驚きです。
久方ぶりに古巣の岩倉城に帰り、縮こまる我が子、徳太郎を見据えながら
「其方、今、長曽我部氏に降するは時変に因て身を立べき為也。
信長、四国を征伐せらるることは亦間も有べからず、
其時、信長に降するも面目なかるべし。今、我旨に任せて土佐方を違変すべし。」
と叱るでもなく、愚痴をこぼすでもなく、滔々と言い含める様は
”偉大なとうちゃん”に睨まれた”洟垂れ小僧”そのもので
催眠術にかかったように、にべもなくその言葉に従うしかなかったのでしょうね。
孫を捨ててでも長宗我部との対決姿勢を貫く笑岩の姿に、
他の三好旧臣たちも、皆、堰を切ったように靡いたのでした。

「讃州十河城、兵粮の記」
は、おそらく天正10年、長宗我部軍に讃岐の十河城が包囲された頃の話ですが
城内の兵糧が欠乏したとはいえ
曲がりなりにも、一城の主が、付近の領主宅で”畜生働き”の強殺事件を繰り返すのですから
互いに領民たちも、さぞ呆れかえったことでしょう。
「幼児を畏(おど)すにも甚丞がそれと云へば啼く子も止ぬ。」
の表現に、お堅い軍学者、香西成資の、意外なウィットが垣間見れて面白いです。
それにしても犠牲になった、真部、佐藤一族は、本当にお気の毒なことでした。

↓肖像は「信長の野望」の三好康長(笑岩)です。
三好長慶の叔父ですから、天正10年頃はすでに70歳を過ぎていたと思います。
まあ、これはまだまだ若く、三好長慶全盛期の頃の面影でしょうか?
しかし、笑岩がいつ、どこで死んだのか、杳として知れないのは残念なことです。
三好徳太郎の墓(供養塔)は、岩倉城にあるらしいのですが・・・

 

「三好存保、阿波国に帰るの記」、「阿州轟城夜戦の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月 5日(日)01時31分8秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.11.4

「三好存保、阿波国に帰るの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1581Ec.htm

「阿州轟城夜戦の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1581Ed.htm

を転記しました。
信長の四国征伐が現実味を帯びてくると
十河存保は、阿波に帰国し一宮成助に対して攻勢をしかけます。
これに対して成助は、土佐に援軍を要請し
久武親直が二万の大軍で一宮城に入城しました。
早速、一宮軍は近くの近藤勘右衞門正次の立て籠もる轟城を攻撃し
落城させました。
勘右衞門も夜戦をしかけて一矢報いるのですが
なにせ二万の大軍には抗しがたく降参せざるを得なかったのでしょう。
このあたりには他の多くの小領主の城もひしめいていますが
記録に残ることもなく、次々と落城させられていったと考えられます。
存保をジワジワと追い詰めていく戦法は
元親が河野氏に対しておこなったものと、ほとんど同じです。
しかし、笑岩も帰国し、存保も闘志満々で対元親の作戦を練っていたことでしょう。
讃岐の情勢も、しばらくは膠着状態が続くことになります。

↓肖像は、「信長の野望」に登場の久武親直です。
兄、親信の「アイツは当家に害しかなさないから、絶対に取り立てないでくれ。」
という懇願にも関わらず、元親は親直を重用します。
軍略的な才能には優れていたのは確かと思いますが
何分、陰険な策を弄し過ぎて、結局、長宗我部家を滅ぼしてしまいました。
「土佐物語」には、吉良親実の怨霊に悩まされる久武一族が赤裸々に描かれ
殺さなくてもいい津野親忠まであやめて、家康を怒らせてしまいます。
改易後は、ちゃっかりと熊本藩(加藤氏)に千石で仕官したそうですが
熊本藩士からも、其の鄙吝(ひりん)を激しく賤まれたそうです。
果たして肖像には、そのような一面が現れているでしょうか?

 

「河野家、大友氏を頼むの記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月 3日(金)02時07分41秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.11.2

「河野家、大友氏を頼むの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1581Ha.htm

を転記しました。
天文年中、河野通直(弾正少弼)は家督を巡って
家臣の村上通康に譲ろうとしたために
養子?の通昌(通政、晴通とも)と対立します。
いわゆる「来島騒動」です。
この時は、大友氏の仲介を容れて通直と村上は来島に逃れます。
しかし、通昌は急死してしまい、家督は弟の通宣(左京大夫)が引き継ぎます。
通宣が毛利元就の娘婿である宍戸隆家の娘を継室としたために
毛利氏が後ろ盾となり、大友氏は土佐一條氏と結んで伊予に進攻し
伊予は、大友氏と毛利氏の代理戦争の舞台となってしまいます。
この時は、「鳥坂の戦い」で通宣が勝利しますが、天正9年に病死
村上通康の子とも言われる通直(伊予守)が継ぎますが若輩の上、病弱で
結局、長宗我部元親に従属を強いられたようです。
その後、秀吉の四国征伐で、小早川隆景に降伏し、河野氏は滅亡しました。
とにかく、事情が複雑な上に、通直が2人、通宣が2人(弾正少弼の父も通宣)と
名前が錯綜して最初は、誰が誰か訳がわかりませんでした。
そういえば、康暦元年に細川頼之に攻められ敗死した河野家当主も通直(通堯)です。
じっくりと頭を整理しながら理解していくしか方法はなさそうです。
皆様も頑張ってください!

↓肖像(上)は「信長の野望」の河野通宣(左京大夫)
↓肖像(中)は河野通直(伊予守)です。
通直は、Wikiで「人徳高く、美談が多い」と讃えられています。
どのような美談か、小生は不勉強で余り知らないのですが
ご存じの方、ぜひご教示いただければ幸甚です。
よろしく、お願いします。
↓肖像(下)は村上通康です。
村上水軍の大将で、「厳島の戦い」で毛利元就に船を提供したことで有名。
NHK大河ドラマ「毛利元就」では「村上虎吉」と架空の人物になっていたのは残念!
せっかくの機会だったので、村上通康を登場させてほしかったですね。


 

「予州河野兵革の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月 2日(木)01時32分58秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.10.31

「予州河野兵革の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1580Hb.htm

を転記しました。
この頃、勢力の衰えた河野氏の本領、伊予国は
周囲より侵攻を受けて混沌とした情勢にありました。
大洲を本拠地とする宇都宮氏は、河野氏と戦いますが
却って毛利氏の伊予侵攻を受けて滅びてしまいます。
永禄10年(あるいは11年)の「鳥坂の戦い」は、
その時、大洲市南方で、宇都宮軍と毛利軍が激突した合戦です。
なぜか、「西讃府志」には香川県善通寺市の鳥坂(鳥坂まんじゅうで有名)
と混同しているのは驚きです。
宇都宮氏や一條氏が讃岐まで進出しておれば、とんだ”とんでも四国戦国史”ですね。
碩学の秋山巌山も、どこで勘違いしてしまったのでしょうか?千慮の一失ともいうべきで
寧ろ、なんとなく巌山に親しみを感じます。
なお、鎌倉時代の阿波でも、佐々木高重の「鳥坂の合戦」がありますので、要注意です。(^^

さて
宇都宮豊綱なき後は、家老の大野直之が長宗我部と組んで、河野氏に抵抗します。
これを忠臣とみるか、逆臣とみるかは評価の分かれる所でしょうが
直之は、後に河野通直の人柄に感動して、再び河野氏に従ったというのですから
小生は武人らしからぬ河野家最後の当主、通直にとても関心を持っています。

↓肖像(上)は、「信長の野望」の宇都宮豊綱です。
あっけなく滅んでしまいましたが、まず四国を代表する名家の一つです。
以前に、栃木県宇都宮市に旅行した際
宇都宮城で、愛媛から来たということを告げると
愛媛は同族の地だから、ということで、非常に喜んで歓待してくれたことを思い出します。

↓肖像(下)は、大野直之です。
精悍ですが、何を考えているのかわからないような謀将のイメージです。
しかし、「大野ヶ原」と大野氏の名前の関連は、初めて知りました。
小生は伊予中世史には詳しくないので、ボロが出ない程度に止めておくつもりです。(^^;

 

「三好存保、綾北條の城を陥すの記」、「羽柴筑前守、淡州を調略するの記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月26日(木)00時26分28秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.10.25

「三好存保、綾北條の城を陥すの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1581Fa.htm

「羽柴筑前守、淡州を調略するの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1581Eb.htm

を転記しました。
小生の故郷である香川県坂出市の戦国史として
細川清氏の白峰合戦と、西庄城の攻防が最も有名です。
といっても、白峰合戦は全国的なネームバリューがありますので
西庄城は、その陰に隠れてマイナーではありますが
羽床資載に攻められ、長宗我部元親に攻められ、十河存保に攻められた
実戦の城として、非常に興味深い城です。
その所在地は、江戸時代に田圃になってしまい、未だに確定していませんが
付近の綾川の堤防に佇むだけで、「兵が夢の跡」を十分に偲ぶことができます。
綾北条は落ちぶれたとは言え、古来からの讃岐国府の地。
ここを抑えることは、戦国になっても象徴的な意味があったのでしょう。

天正9年になって、織田信長と長宗我部元親の友好関係は破綻し
信長は、淡路を足掛かりに四国進攻の準備を、秀吉に命じます。
本能寺の変さえなければ、四国の勢力図はどうなっていたか
歴史に「もし」は禁句ですが、おおいに興味をそそられます。

↓肖像は、「信長の野望」に登場する長宗我部親和です。
爽やかな凜々しい若武者として描かれています。
この頃の讃岐の攻略は、親和と義父の香川信景に託されました。
その後
嫡男の信親亡き後、秀吉によって長宗我部家督を約束されますが
元親はそれを果たさず、やがて悲劇的な死を迎えます。
この肖像には、そのような暗い影の片鱗さえ見いだすことはできません。

 

「土州大津一條殿、放流せらるるの記」、「土佐元親、讃州西長尾に出陣の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月21日(土)00時19分51秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.10.20

「土州大津一條殿、放流せらるるの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1580Ha.htm

「土佐元親、讃州西長尾に出陣の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1580Fa.htm

を転記しました。
波川玄蕃の謀叛に加担したとして
遂に、元親は大津城の一條内政を、予州法華津に追放します。
元々、公家の国司が大名となった特異なケースは
土佐の一條家、飛騨の姉小路家、伊勢の北畠家が知られていますが
土佐一條家は、長宗我部氏により追放
飛騨の姉小路家は、三木氏族の姉小路良頼により乗っ取り
伊勢の北畠家は、織田氏によって滅ぼされました。
しかし、滅ぼした側はいずれも2代の内に滅亡しています。
日本は朝廷の秩序を大義名分とする国柄なので
下克上で公家を滅ぼした家は、いつの世でも万民に認められることはありません。
その意味では、元親も3本の指に入る、稀代の”梟雄”という事ができるでしょう。
「土佐国古城略史」と「土佐軍記」の痛烈な批判は、「大津村史」を参考にしました。

讃岐に侵攻した元親は鵜足郡の長尾に新しい城を築き
ここから、まず香川民部少輔の拠る西庄城を囲み降伏させました。
民部少輔も、今度ばかりは小早川の援軍も期待できず、心ならず元親に下ったのでしょうが
これが原因で三好存保に追放され、結局は滅亡してしまいます。
家臣の宮瀧(宮武)源三兵衛が後に供養塔を建てています。

↓写真は、「信長の野望」に登場する法華津前延です。
予州法華津城主で、西園寺氏の家臣です。
一條兼定や内政を保護しましたが
内政は、ここで病死したとも、毒殺されたとも伝わっています。
天正13年7月の、兼定とほぼ同時の死ですから、やはり毒殺だったのでしょうか?

 

「四国凶年兵乱相続き飢餓に至るの記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月15日(日)00時21分51秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.10.14

「四国凶年兵乱相続き飢餓に至るの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1580Eb.htm

http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1581Ea.htm

を転記しました。

この項は、2つの部分に分かれており
前半は、阿波国で盗賊や海賊が横行したことについて
後半は、新開忠之(道善)と東條関之兵衛の争い(長生・濁ヶ淵の戦い)について記しています。
盗賊は、十河存保を以てしても、なかなか退治出来なかったのですが
信長を後ろ盾とする三好笑岩の帰国で、一気に鎮圧に成功しました。
本願寺や根来衆などとの死闘で鍛えられた中央の軍団の強さは
盗賊など、所詮はモノの数ではなく
コソコソと陰で工作する元親勢にとっても、大きな脅威であったことでしょう。

新開道善と東條関之兵衛の合戦は、天正8年春頃としていますが
道善の挑発が激化したのは天正7年頃なので
もう少し早く行われたものかもしれません。
鎌谷嘉喜氏の「阿波古城物語」でも天正7年としています。
三好家の高恩を蒙った余所者のくせに、早々と長宗我部に下り
おまけにその縁者となった関之兵衛を、道善は許すことができなかったのでしょうが
しかし、それこそが元親の謀略で、道善はまんまと乗せられた恰好になった訳です。

↓肖像の上側は、「信長の野望」に登場する新開道善。
道善の生年は不明ですが、若すぎてちょっと、小生のイメージには合わないような・・
寧ろ、当時は出家入道なので下側の方がピッタリでは・・ただし、これは三好政勝の肖像です(^^;

 

三好存保、讃州十河城に帰るの記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 7日(土)06時52分27秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.10.6

「三好存保、讃州十河城に帰るの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1580Ea.htm

を転記しました。

岩倉城で矢野駿河守や森飛騨守が討たれ、意気消沈するのも束の間
魔の手が十河存保に忍び寄ります。
上桜城で滅ぼされた篠原紫雲の甥である右京進が
存保の命を狙っているとのご注進があり、
それとともに篠原自遁や一宮成助の不穏な動きが見られたため
存保は、讃岐の十河城へと密かに脱出します。
自分の周りまで討手が迫る逼迫した状況での単身脱出は極めて危険ですが
さすが、聡明な存保の最良の策だったと感じ入ります。
まさか讃岐に脱出するとは思いもよらず、元親は地団駄踏んで
悔しがったことでしょう。

↓肖像は、「信長の野望」に登場する十河存保です。
剛胆な兄の長治とは対照的な優男に見えますが
智力胆力ともに据わった怜悧な一面を、よく捉えていると思います。
小生もお気に入りの一枚です。

 

「三好家忠臣戦死の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 5日(木)22時04分29秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.10.5

「三好家忠臣戦死の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1579Ea.htm

を転記しました。

天正6年正月に、十河存保が阿波に帰国して
その6月に重清城奪還に失敗してから1年余り
長宗我部元親も、矢野国村や森飛騨守らの三好忠臣の活躍で
阿波西部の侵略はやや鈍化した状態が続いていましたが
天正7年12月になって、三好忠臣を一網打尽にする、思い切った作戦に出ます。
岩倉城の三好徳太郎に偽の書状を書かせておびき寄せ
一気に殲滅するという汚いやり方です。
この騙し討ちで、三好の主だった武将は死んでしまい
存保も苦境に立たされますが、却って織田信長に救援を求める絶好の口実ともなりました。
しかし、信長が動き出すには、まだ1年以上の歳月が必要で
その間、存保も自身の暗殺を警戒し、讃岐の十河城に避難してしまいます。
存保にとって、もっとも臥薪嘗胆の時期だったと言えましょう。

↓写真は、「信長の野望」に登場する桑名弥次兵衛(吉成)です。
有名な桑名太郎左衞門(親光)の従兄弟にあたります。
「長元物語」から、西林城の三橋兄弟とこの弥次兵衛あたりが
この騙し討ちの首謀者ではないかと推測できます。
そうすると三好徳太郎の裏切りというのは、とんだ冤罪かもしれませんね。
弥次兵衛は、この年、若干28歳の若武者で、面影としては矛盾してないようです。

 

「土州元親、讃州羽床に出陣の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月 2日(月)21時02分34秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.10.2

「土州元親、讃州羽床に出陣の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1579Fe.htm

を転記しました。

天正7年4月28日
長尾・羽床連合軍と長宗我部軍は、土器川の西岸、現在のまんのう町吉野と高篠で激突しました。
長尾軍は、「芭蕉」(現在の「場正」)に伏兵を置き、緒戦に勝利しました。
長尾氏の家臣、片岡伊賀守高好の活躍と戦死が地元では伝えられています。
片岡家は、細川清氏を斃した伊賀掃部助高光の後裔といわれ
羽床の奥の山田に領地を賜って伊賀城を築城し、代々、長尾氏の家臣を勤めました。
現在の琴平町上櫛梨に、子孫の建立した立派な「片岡伊賀守墓」が保存されています。

羽床氏との戦いの場となった「高篠」は、小生の父方の先祖代々の地。
子供の頃から、父やお祖父さんに地元の昔話を聞くのを常としていましたが
「高篠の戦い」がどのようなものであったか、ついぞ聞いた記憶はありません。
地元でも、ほとんど記録などは残っていないのですが
このあたりは、田圃の中のあちこちに無名の塚や古墓が残っており
合戦の供養塚などもあったのかもしれません。
子供の頃は、そうした塚を巡り歩くのも遊びのひとつでしたが
残念ながら、最近の宅地造成や再開発などで
次第に姿を消していっているのは残念でなりません。

↓写真は、現在の「場正」付近の様子。
長田うどんの交差点から南に進むと「大根劇場」の目立った看板がありますが
このあたりが「場正」です。
今は拓けた所ですが、当時はあちこちに泉や林のある鬱蒼とした場所ではなかったでしょうか?
最近の調査で、中世の館か砦の跡が埋蔵されていることが判明しています。

 

「讃州勝賀西表平尾合戦の記」、「香川信景、土佐元親に降するの記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月23日(土)20時19分20秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.9.23

「讃州勝賀西表平尾合戦の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1579Fc.htm

「香川信景、土佐元親に降するの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1579Fd.htm

を転記しました。
大学もそろそろ後期日程が始まりますので、あとは暇を見つけてボツボツ転記を進めます。
これで「南海治乱記」も第10巻まで転記完了です。まあ、内容が長いので時間がかかります。
今回は
羽床の香西攻めと、香川氏の元親降伏の項です。
天正6~7年にかけて一気に讃岐に雪崩れ込んだ土佐勢は
小領主達の城を攻略していきます。
香川氏の降参は、そんな小領主が浸食されていった前なのか後なのか
前であればとんでもない背信行為、後であればやむを得ない辛い忍従ということになります。
小生は、豊田郡がほとんど侵略されての屈服ととっているのですが、如何でしょうか?
藤目城を助けられなかったのは、元親に釘を刺されていたからかもしれません。
しかし、香川氏があっさりと降伏した事で、次は羽床氏や長尾氏が矢面に立たされます。
讃岐武士の意地をかけた必滅必定の戦いが始まります。それは、第11巻のお楽しみに・・・

↓写真は「信長の野望」に登場の香川之景です。
小生は、之景が信長の諱の一字をもらって信景と称したと認識しているのですが
之景は信景の父であるとか、元景が信景になったとか書物によってさまざまです。
確かに「元」という字と「之」という字は行書体で書くと区別しづらいので
なかなか悩ましいところです。
甚だしいのは、之景が養子になった長宗我部親和であるというのもあります。
さてさて、どれが正しいのでしょうか?
 

「讃州福家七郎、殺害被らるるの記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月18日(月)19時51分53秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.9.18

「讃州福家七郎、殺害被らるるの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1579Fb.htm

を転記しました。
香西家と羽床家の確執を、なんとか和睦に持って行きたいと
双方の間で悩む福家七郎を
香西佳清は、冷酷にも船の上で暗殺してしまいます。
裏切りは許さないという佳清の偏執的な性格に
世の人々は眉をひそめた、と伝えられ、
「南海治乱記」や「全讃史」も七郎に同情的な批評をしています。
このような状況で、遂に資載は佳清に直接対決に挑んでいきます。
長宗我部元親が迫り来る中での、何の実りもない内訌戦だけに
彼も絶望的な気持ちになったと思います。

1572年の三好長治の香川郡木太郷の鷹狩りの項に
羽床政成(資載の父)のユニークな「玉藻集」の逸話を追加しました。
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1572Fa.htm

当時の武士の教養の程が偲ばれて、とても面白いと思います。
↓は、「信長の野望」の三好長治です。
暗愚な暴君とは違った剛胆な武将のイメージです!
ぜひ、ご一読ください。

 

「讃州香西家内乱の記」、「香川民部少輔、毛利家に服従の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月16日(土)00時07分53秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.9.15

「讃州香西家内乱の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Fe.htm

「香川民部少輔、毛利家に服従の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1579Fa.htm

を転記しました。
香西家と仇敵となった、羽床資載は攻撃を開始します。
まず、柾木城の瀧宮豊後守・・離縁された佳清の妻の妹の嫁ぎ先です。
佳清に近い豊後は、妻を離縁するだろうと踏んでの攻撃でした。
しかし、大将の羽床忠兵衛は不測の死を遂げてしまいます。
次は、綾北条郡の香川民部少輔行景。
元々は羽床と同族ですが、これも佳清派とみての攻撃でした。
しかし、小早川隆景に援軍を頼んで、資載はこれまた思わぬ敗軍となってしまいます。
隆景は、現在の坂出市街を通過して西庄城に押し寄せました。
小生の坂出の実家は、その砂州上(中州)にあります。
家の敷地を隆景軍が踏んでいったと思うと、感慨もまたひとしおです。
「玉藻集」の記事と合わせて長文になってしまいました。申し訳ありません。
小早川軍が押し寄せるところは、元吉合戦とよく似ていますが
この2つは全く別の合戦です。坂出には摺臼山という山や城はありません。
小早川VS羽床という戦いの構図も同じですが、絶対に同じものではないと思います。
また、皆様のご意見をお聞かせ頂ければ幸甚です。

↓は、「信長の野望」の讃岐国人衆・・・
香川民部少輔も、このような武将だったのでしょうか?

 

「讃州藤目城主、土州元親に服従するの記」、「土佐元親、讃州財田に発向の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月12日(火)02時55分54秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.9.11

「讃州藤目城主、土州元親に服従するの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Fc.htm

「土佐元親、讃州財田に発向の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Fd.htm

を転記しました。
元親の讃岐進入の矢面に立たされて滅んだ
新目弾正と財田和泉守常久の物語です。
土佐方への、香川元景の思わぬ寝返りによって
讃岐の諸将は最初から苦戦を強いられてしまいました。
治乱記では、余り触れられていませんが
香川氏領内の
細川伊予守氏政(九十九城主)や細川土佐守頼弘(仁尾城主)
近藤出羽守国久(麻城主)、大平伊賀守国祐(獅子ヶ鼻城主)
も元親に抵抗して滅ぼされたと伝えられています(異説はありますが・・)
おそらく、香川氏の意向に従わなかったため、領内の掃討戦で
虱潰しに個々に攻撃されていったのでしょう。
香川県内では、今も長宗我部元親憎し、の風潮が高いため
こうした義に殉じた小領主を讃える慰霊祭や、遺跡の整備が盛んです。
↓写真は、藤目城近くで開催される、仲南町の「ひまわり祭り」と土讃線。
(写真は、 http://4travel.jp/travelogue/10355296より拝借)
ひまわりの花言葉は「あなたは素晴らしい」・・
弾正さん、和泉守さん、貴方のことですよ!(^^
 

「讃州藤尾城経始の記」、「信長公、土州元親に制止を加へ被るるの記」、「北伊予三郡の兵将、元親に服従の記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月 7日(木)21時21分22秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.9.7

「讃州藤尾城経始の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Fb.htm

「信長公、土州元親に制止を加へ被るるの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Ga.htm

「北伊予三郡の兵将、元親に服従の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Ha.htm

を転記しました。
次々と侵略の魔の手を伸ばす長宗我部元親と、それを阻止せんとする織田信長
双方のしがらみの間に立って困難な外交を遣り繰る、明智光秀とその家臣達・・・
本能寺の変以降の出来事は、元親のやりたい放題の侵攻という事で、話はわかりやすいのですが
織田氏との戦闘状態に至るまでの駆け引きの面白さが、この頃の歴史の醍醐味です。
香西成資も、多少の年号の勘違いもありますが
とても良く、当時の状況を把握していると思います。さすがは成資です。
↓肖像は、「信長の野望」に登場する
元親の走狗となって、調略を繰り返す大西上野介頼包です。
少し内野聖陽に似ているような・・?

 

「十河存保、三好家を継ぐの記」、「阿州重清、殺害に遇ふの記」、「香西氏臣、権威を争ふの記」等を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月 2日(土)02時04分0秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.9.2

「十河存保、三好家を継ぐの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Ea.htm

「阿州重清、殺害に遇ふの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Eb.htm

「阿州重清合戦の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Ec.htm

「香西氏臣、権威を争ふの記」「阿波讃岐の兵将、三好存保に属するの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1578Fa.htm

を転記しました。
三好長治の死によって混乱していた阿波国も
十河存保の帰国によって転機を迎えます。
迫り来る強敵、元親に対し対決姿勢を露わにしていきます。
阿波讃岐の挙国一致体制を固めていく途中で
内訌に苦しむ香西氏は自滅の道を辿ることになります。
その最初が有名な「成就院事件」です。
小生は、陰の黒幕を羽床資載と踏んでいるのですが
異論もあることでしょう。色々とご意見をお聞かせ頂ければ幸甚です。
その後の、羽床資載の行動は、破れかぶれの自暴自棄に見えますが
実は、三好に最後まで忠誠を尽くす
彼なりのリーズナブルな考えによるもので、非常に良く理解できます。
小生は、矢野駿河や森飛騨と並ぶ三好の忠臣のひとりだと思っています。
そう思うと、彼が哀れでなりません。
↓写真は、「信長の野望」に登場する羽床資載です。
小生のイメージにピッタリ!!

 

「土佐元親、阿波大西邑に出陣の記」、「土佐元親、雲辺寺に登るの記」、 「一宮長門守、高崎表に出陣の記」等を転記しました

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月31日(木)02時19分55秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.8.30
「土佐元親、阿波大西邑に出陣の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1577Ec.htm

「土佐元親、雲辺寺に登るの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1577Ed.htm

「一宮長門守、高崎表に出陣の記」「矢野駿河守、南方桑野に出陣するの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1577Ee.htm

を転記しました。

矢野駿河守国村と一宮長門守成助の攻防戦は、余り詳しく記載された書物もなく
また、誤った解釈も多いイベントですが、「昔阿波物語」が最も詳細に正確に伝えていると思い
併記しておきました。
孤立した国村が船で讃岐まで回漕して勝瑞に帰ったという説が多いのは
讃岐の津田と、徳島市の津田を取り違えたものだと思います。確かに、当時の讃岐引田付近は
国村の支配だったので、船まで使ったのだから讃岐まで迂回したと考えがちで
小生も最初はそう考えていましたが、単に勝浦川を渡って対岸の津田に着いたとするのが最短で
一番、リースナブルだと思います。
それにしても、国村を置き去りにして単独戦線を離脱した、篠原自遁の体たらくぶりはどうでしょう。
国村も呆れかえったに相違有りません。
まあ、どこでも、こんな人はいますよね。なんだか、憎めないんですがね。

では、また。
 

「老父夜話(巻之九)を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月28日(月)01時13分25秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.8.27

「老父夜話;巻之九」を転記しました。

http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1575Eb.htm

「南海治乱記」には、所々に「老父夜話」と銘打って、様々な逸話が書かれています。
巻之九では、長宗我部元親の「鉉切れ弓折れる」夢診断と、
三好家におこった怪異現象についてです。
元来、長宗我部家はご神託を大事にする家柄で
家臣との合議の後でも、最後にご神託を仰ぐことを常としていました。
岡豊八幡の神主である谷左近は、元親から夢に関して神託を求められたのに
自分の勝手な解釈で「吉夢」と判断しました。
本当に吉夢だったのでしょうか?皆様のご意見はいかがですか?

三好家の怪異現象は、家臣の実名も詳細に記録されておりリアルです。
↓は、NHK大河の「太平記(第8回)」の一場面。
時の執権、北条高時(片岡鶴太郎)が、「妖霊星・・」と呟く天狗達に囲まれているところです。
ドラマでは、内管領の長崎円喜(フランキー堺)を暗殺する伊賀忍者として描かれています。
妖霊星(ようれぼし)とは、世に災いをもたらす彗星のことです。
結構、印象に残る一コマでした。
 

「一條殿若君守立るの記」、「西方渡川城陥るの記」、「東方野根城陥るの記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月24日(木)02時47分39秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.8.23

「一條殿若君守立るの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1574Hb.htm

「西方渡川城陥るの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1575Ha.htm

「東方野根城陥るの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1575Hb.htm

を久しぶりに転記しました。
元親の土佐平定完結編です。
土佐一條家は身内を以て身内を制す
まさに、「三国志」曹植の七歩の詩
「豆を煎るに豆がらを燃やす 豆は釜中に在りて泣く」ですね。
滅び行くものの悲哀を感じさせます。

野根氏の先祖は鷲住王・・讃岐の飯山大権現の主で初代讃岐の国造と伝えられています。
最初の国造は、悪魚退治の武殻王(讃留霊王)と神櫛王でなかったのでは?・・・と
まあ、細かい事は言いっこなしでしょう。
とにかく、野根と讃岐の意外な接点が見いだせて嬉しく思います。
我が讃岐の誇る中山城山の鷲住王賛歌もいいですねえ~
「権勢を假らずして能く人急を脱し、一日の勤無くして其の名を朽たさず。」
今の腐れきった政治家に言ってやりたい名文だと思います。

写真は,高松市の「香南歴史民俗郷土館」(旧由佐城址)の中山城山展示室です。(同館HPより)
 

「安岐郡兵役記」「高岡郡兵役記」「仁井田表兵役記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 8月 3日(木)15時10分36秒 p32030-ipngnfx01souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  2017.8.2

「安岐郡兵役記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1570Ha.htm

「高岡郡兵役記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1570Hb.htm

「仁井田表兵役記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1571Ha.htm

を転記しました。
最近は大学も夏休み・・この間にできるだけ転記を進めます。
これが終わってからが、HPの始まりと考えています。よろしくお願いします。

安芸氏と最大の攻防戦となった「矢流の戦い」
両軍の放つ夥しい矢で、川が埋め尽くされたというのが地名の由来だそうです。
レストラン矢流の名物”釜上げちりめん丼”・・また、食べたいなあ。
佐竹信濃の又甥が、伊達騒動で有名な柴田外記です。
NHK大河ドラマファンの小生は
「樅の木は残った」総集編を時々見るのですが
柴田外記役は、時代劇悪役で有名な神田隆さんが務めました。(下写真)
史実では、伊達本家取潰しを画策する宗勝派の原田甲斐に斬殺されるのですが
大河では、酒井忠清の家臣に不意打ちで殺されてしまいます。
一刀で斬られて、縁の下に転げ落ちるシーンは忘れることができません。
神田さん自身も、必殺仕置人の最終回撮影後に
京都駅のエスカレータから転げ落ちて亡くなったそうです。
何か運命的なものを感じますね。
ところで
久礼城の近くにある「鰹乃國の湯宿 黒潮本陣」・・
本陣と云うからには、何かお城と関係があるのかチョット気になり
調べて見ましたが、結局わかりませんでした。
まあ、「黒潮本陣」のトレードマークは家紋「渡辺星」のようですが
佐竹氏は、本家と同じ、日の丸の扇を広げた「月丸」ですから
関係はないようにも思います。少し残念・・・

では。

 

「香美郡兵役記」「長岡郡兵役記」「土佐郡兵役記」を転記しました。

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月31日(月)00時17分11秒 p32030-ipngnfx01souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  2017.7.30

「香美郡兵役記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1556Ha.htm

「長岡郡兵役記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1562Ha.htm

「土佐郡兵役記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1563Ha.htm

3連発を転記しました。
順番に、香宗我部氏、秦泉寺氏、吉良氏への侵略が記されています。
平和的に併合したものもあれば、完全に滅ぼされたものもあります。
続いて鉾先は、最大のライバル安芸氏と、下克上となる主君、土佐一條家に向けられます。
長宗我部元親、怒濤の進撃が活き活きと描写されています。
興味あるのは、吉良親実の怨霊・・いわゆる「七人ミサキ」伝説で
今でも恐れられている悪霊中の悪霊です。
元親が供養しても、全く収まらなかったそうで、綿々として今日に及んでいます。
よほど、親実は無念の最期だったのでしょう。
おそろしや、おそろしや・・・
 

「長曽我部元親創業記」「長曽我部宮内少輔、長浜城を抜くの記」「吾川郡兵役記」

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月29日(土)00時45分36秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.7.28

「長曽我部氏由来記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1539Ha.htm

「長曽我部宮内少輔、長浜城を抜くの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1560Ha.htm

「長曽我部元親創業記」「吾川郡兵役記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1567Ha.htm

3連発を転記しました。
長宗我部元親が、如何に土佐を統一し、他国に侵略していくのか
その過程を見ることは、非常に興味あることです。
今夜は、本山氏との対決場面であり、元親初陣の勇姿が描かれています。
岡豊城には、長槍を持つ元親初陣の銅像が建立されています。
物語を知って見ると、また、感慨深いものがあります。

では、また。


 

「伊澤越前守戦死の記」「松永弾正滅亡の記」

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月27日(木)01時33分32秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.7.26

「伊澤越前守戦死の記」と「松永弾正滅亡の記」を転記しました。

http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1577Eb.htm
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1577Ga.htm

伊澤越前守は、矢野国村によって謀殺されました。
旧知の庄野久右衞門を使っての騙し討ちは、余り好きにはなれませんが
主君を裏切った謀反人には相応しい死に方かも・・
しかし、裏を返せば、細川家に忠義を尽くした忠臣とも言えるのですが・・

松永弾正の死も、戦国の三大梟雄として見事なもの。
ところで、三大梟雄とは、誰と誰かおわかりですか?
????????????????????

松永久秀+北条早雲+斎藤道三
松永久秀+斎藤道三+宇喜多直家
のどちらかだそうです。
まあ、謀殺と暗殺を多用した点では
松永久秀と宇喜多直家が二大巨頭でしょう。
北条早雲は、結構、正々堂々と渡り合っています。
宇喜多直家は、”尻はす”と呼ばれる大腸癌(肛門癌)での悲惨な病死ですから
やはり、最期まで梟雄らしい死に方を全うしたのは久秀に軍配が挙がるでしょう。

これで、巻之八は終わりです。
しばらく、次の巻之九は、長宗我部氏の台頭となります。
お楽しみに・・・

 

三好長治滅亡の記

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月24日(月)20時01分4秒 i114-185-29-198.s41.a011.ap.plala.or.jp
返信・引用
  2017.7.24

「三好長治滅亡の記」を転記しました。

http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1577Ea.htm

この事件を境に、三好氏は長宗我部元親とのし烈な戦いに突入します。
長曽我部氏に対抗するためには、仇敵、信長との連合も考えなければならず
信長を敵とみなす長治は、連合派にとって、最大の障害であったのかもしれません。
殺されるべくして殺された、ということでしょうか?
皆様は、どのようにお考えでしょうか?

では、また。
 

三好長治、舟長を惨殺!

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月 7日(金)17時31分51秒 p32030-ipngnfx01souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  2017.7.7

久しぶりに転記しました。
本日は「阿波屋形長治、国家存亡を辨ぜざるの記」

http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1576Ec.htm

その中で、長治が命に従わなかった舟長を惨殺する話があります。
讃岐で鷹を叩き殺した小童を牛裂きの刑に処する話とともに
長治の残忍さを強調する形となっています。
芦原から引きずり出されて、真っ向唐竹割で伐り殺される場面は
想像するだけでも、身の毛もよだつ恐ろしさを感じます。
その同じ脇差で、同じ日時に自害する訳ですから、まさに因果応報というべきですね。

では。
 

元吉合戦

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月24日(土)23時25分28秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  2017.6.24

元吉合戦を転記しました。
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1577Fa.htm

南海治乱記には記述がなく、毛利方の史料に詳しい謎?の合戦・・
香川県善通寺市の元吉城(櫛梨城)と摺臼山城を舞台に
香川・小早川連合軍と長尾・羽床・三好連合軍が戦いました。
櫛梨城は、小生の父の実家近くで小学生の頃からよく登りました。
明治時代まで、女郎松と呼ばれる松の巨木があって
夜な夜な、お姫様の幽霊がすすり泣いていたと
お祖父さんから、よく聞いたものです。
いつの日か、また櫛梨山に登って当時を偲んで見たいものです。

 

大西覚養の動揺と寝返り・・

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月23日(金)21時21分31秒 p36113-ipngnfx01souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  2017.6.23

「阿州大西覚養、土州元親に降るの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1576Ea.htm

「大西覚養、違変を生じ人質を捨つるの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1576Eb.htm
を転記しました。
三好長冶の政権末期の頃
河内の三好笑岩からは織田信長に付けと勧誘され
長宗我部元親からは土佐方に寝返れと説得され
揺れ動く阿波の小領主たちの迷いがここにはあります。
おそらく、大西覚養だけでなく、多くの武将も動揺したことでしょう。
元親の勧誘が少しだけ早かったのは、覚養の運が悪かったとしか言いようがありません。
しかし、畿内の情勢を知る阿波の主だった領主は、最初から笑岩の誘いに乗ったはず・・
そのために、もっとも邪魔なのは、三好長冶だったかも・・
長冶は、どちらからも邪魔な存在として消される運命だったのかもしれませんね。

ご笑覧のほどを・・(アドレスの数字がイベントの西暦です。)

 

「讃州兵将、信長に服従するの記」

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月18日(日)22時14分22秒 p32030-ipngnfx01souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  2017.6.18

「讃州兵将、信長に服従するの記」を転記しました。
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1576Fa.htm
三好につくか、毛利につくか、はたまた織田につくか
讃岐の諸家は難しい選択に迫られます。
香川香西両家は、結局、織田につく選択をするのですが
全部の讃岐の兵将が、この選択に賛成した訳ではなかったと思うのです。
特に、羽床氏などは反対したのではないかと、小生は考えています。
これが、翌年に起こった元吉合戦の伏線となっているような気がします。
それはまた、元吉合戦の項目で考察したいと思っています。

ご笑覧のほどを・・(アドレスの数字がイベントの西暦です。)

 

「土佐元親、阿州に出陣の記」

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月17日(土)21時00分49秒 p32030-ipngnfx01souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  2017.6.17
ちょっと、疲れていたのですが
夕方から
1575年の、元親阿波侵攻の項を転記しました。
このあたりは、「元親記」の方が詳しいので
南海治乱記の後で、併記していく予定です。

「土佐元親、阿州に出陣の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1575Ea.htm
島彌九郎が惨殺された那佐湾・・海部から宍喰の途中にある
細長い美しい湾です。水も綺麗で、水底まで透き通って見えます。
小生も「遊遊NASA」がお気に入りで、翌朝、ゆったりと那佐湾を見下ろすのが好きでした。
近くにあった喫茶「ミルキーアイランド」・・今はもうないんだろうなあ・・
本当に島彌九郎は元親の弟なのだろうか?本当に海部宗寿に殺されたんだろうか?
余りにも、時期を得ているよなあ・・と
海を見ながら飲むコーヒーの味は、また格別でした。
 

三好笑岩、信長に降伏・・

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月16日(金)22時37分55秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  本日、2017.6.16
天正3年の2記事を転記しました。

「三好山城入道笑岩、信長に降するの記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1575Ga.htm
本能寺の変さえなければ、笑岩は四国の大名となっていたことでしょう。

「三好家兵将、讃州寒川に発向の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1575Fb.htm
弟の十河存保から、兄の三好長治への諫言の書が、心を打ちます。
この時すでに、長宗我部元親の海部侵攻は開始されていました。

ご笑覧のほどを・・(アドレスの数字がイベントの西暦です。)
 

本日より・・・

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月15日(木)20時28分18秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  「南海治乱記」の転記も、天正3年に至り
遂に、長宗我部元親の阿波侵攻を迎えることとなりました。
転記作業は、仕事の合間を縫っての遅々たるものですが
どこまで進んだかをお知らせするために
更新ごとに、この掲示板で報告することにします。
本日、2017.6.15

「安宅冬康の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1564Gb.htm
当時の世相にあって、文武両道と己の節度を守った仁将ゆえに
その最期もまた、悲劇的なものでした。

「讃州那珂郡金倉陣の記」
http://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1575Fa.htm
金倉顕忠は、なぜ無謀な戦いを香川氏に挑んだのか?・・
その謎を、自分なりに考察しています。
南海治乱記の他に、西讃府志と玉藻集の記事も、転記しました。

ご笑覧のほどを・・(アドレスの数字がイベントの西暦です。)
 

南海治乱記の巻之七まで

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月 5日(月)16時54分10秒 p32030-ipngnfx01souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  平成29年6月5日

「南海治乱記の巻之七」まで転記完了。
この巻は、畿内における三好氏の衰退と、三好長治の圧政について記述されています。
三好長治と十河存保が入れ替わっておれば、また、三好氏の命運も変わっていたかもしれません。
正男と正恩が、入れ替わっておれば・・と考えるのと同じでしょうか?

香川元載の本太城攻撃は、なかなか難しい謎を残しているようです。
毛利氏、村上水軍、大友氏、浦上氏、浮田氏という複雑な勢力の拮抗下にあった、当時の児島の
誰を、元載は攻めたのでしょうか?
おまけに裏切りや寝返りが、何度も繰り返される混沌とした勢力争いの時期です。
毛利側の資料が多く残っており、香西を敵とした感状もあるので、さらに混乱するのですが
本太城の合戦は、過去に何度も行われており、
元載の他に、永禄11年には、香西又五郎という者も討ち取られているので
或いは、違う時期の感状を、混同しているのかもしれません。
今後の、さらなる研究が待たれるところです。
ただ、感状というものは、その時、即時に発行されるものもあれば
何年かして、記憶を頼りに発行されたり、自家の権威を高めるために偽造されたりもするので
これだけを、真の資料とする姿勢には賛成できません。
まあ、アマの独り言として、お許しください。

 

南海治乱記の巻之六まで

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 5月19日(金)23時57分12秒 p32030-ipngnfx01souka.saitama.ocn.ne.jp
返信・引用
  平成29年5月20日

「南海治乱記の巻之六」まで転記完了。
この巻は、ほとんどが三好家の中央での盛衰を記したものですが
所々、香西成資の誤認があるものの
当時、地方に伝わっていた中央の歴史が赤裸々に描かれていて、興味が尽きません。
特に、巻末の「是、十河家の臣古老口つから語り伝ふ所也。」とあるのは
仄かなロウソクの灯りの下で、老翁の話を瞬きもせずに聞いている成資の姿を彷彿とさせ
感慨深いものがあります。

とりいそぎ。
 

よろしくお願いします!

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 3月23日(木)20時11分14秒 ftu42127227236.yuzu-tv.ne.jp
返信・引用
  管理人です。

還暦を迎える今年、一発奮起して
アマチュアの視点から、故郷の中世史を探求しようと
ようやく、阿讃戦国史の年表部分だけ完成しました。
しかし、まだまだ知らないことも多く、研究はこれからです。
香川県、徳島県はじめ、全国の皆様方の情報を、こころよりお待ちしております。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

今までの趣味に関しては、下記URLをご参照ください。

http://userweb.shikoku.ne.jp/mineral/index.html
 

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